海へ2
南房総の海に行ってきた。
どうしても朝の高速を小山田壮平のハイウェイを聴きながらぶっ飛ばしたかった。
自分の中の高速の高速らしい良さは郊外を抜けるあたりからようやく始まる。
今日は幕張あたりから早とちりして曲を流してしまってタイミングを間違えたと思った。
良く晴れた朝はどこへでも行ける気がする。なんだって起こる気がする。
晴々としていて、春っぽい風がちょうど良く吹いていた今日だったけど、海岸の風の強さはもう暴風と言って差し支えないレベルだった。
湯を沸かそうにもなかなかバーナーを点火できない。
ギターを弾いて歌っても瞬間風に流されてしまってあまり気持ち良くない。
なかなか順風満帆にいかないものだと痛感。
ミルクティーを一杯しばいて、車を風除けに適当に歌い歌い、早めに切り上げて温泉に行くことにした。引き際は肝心。
「海辺の湯」という名の海辺の湯に行った。
その名に恥じない海辺の湯っぷり。
覚えたてのサウナルーティンを2セットこなし、
薄ら見える富士山の大きなシルエットと、
沈んでゆく夕日を2人フルチンで眺めた。
僕らの事情とも情緒とも関係なくただ裸の太陽が対岸の奥に沈んでいく感じ。
絶景を目の前にしているはずなのに、心に留まることなく流れていってしまうような感覚。
覚えていたいという意地が長い時間をかけてイメージを定着させていくんだろうなと、今日は楽観的にそれを見ていた。
満々足。
帰りの車内、アルピーとオードリーのラジオを聴いてゲラゲラ笑った。
帰り道友人と話して、彼の新生活に伴う困難の多さをあまりに理不尽だと思った。
チャランポランなおれが言っても説得力に欠けるが、目の前のことにひたむきに取り組んできた彼がいま望んでいるささやかなことすら許さない世の中ならそんなもん間違ってるなって思う。
お前は社会がわかってないって言われようと、実際にそうであろうとそこは変わらず声を大にしてふざけんなって言いたい。
誰かの人生はその誰かのものでしかない。
結果としての正しさも間違いもその人以外に噛み締める権利を持つ奴はない。
自分が言ったことと矛盾するのかもしれないけど、選択とか反論の余地を与えずにお前は間違ってるとか正しいとか言う人は自分と他者の決定的な交わらなさに目を背けてるだけじゃないかって思う。
たぶんこれも言い過ぎてるし言い切り過ぎてるんだろう。そしてめちゃくちゃブーメランである。
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ところで、春がどのようにして訪れるのか、
先週までは山のほうからの風が冷たくてずっと寝ていたかったはずなのに、
今日はどうして海のほうから気持ち良い温度の風がビュンビュンしているのか、とかを
どうして知らないままにして置いたんだろうと思った。
今日はもうなんにもしたくないので明日Googleしてみようと思う。
良い日だった。
2021.2.22