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折坂悠太のさびしさを久しぶりに聴いて、やっぱり本当にいい曲だと当たり前ながら思った。
久しぶりといっても僕は折坂中毒だから、2週間ぶりとかなんだろうけど。
そもそも『平成』があまりにも素晴らしすぎる。休日に河原で友人やそこらへんの老若男女と合奏するのが夢だ。
少し時間をあけただけで聴こえ方がやっぱり変わる。今日はパーカッションがよく聴こえる。ヘッドホンを新しく買ったからかもしれない。
無性に懐かしいような気になって、無性に宮城に行きたくなった。宮城行きたい。
ひとりで石巻に行ったとき、当たり前に街が街としてそこにあって、震災の跡も他人行儀で、
あの時間と感覚が自分のなかに残っていてくれるのか少し不安だったけど、今も心の下のほうでやけに光っている。
忘れてしまいそうで不安な時も身体は案外開かれているんだと思う。
意識というのを神聖視しすぎなのかもしれない。身体を侮っているのかもしれない。
そう言いながら先日の地震をもう忘れかけているんだけど。
このブログってURL貼れないんだろうか?
gateballers
gateballersのベースの本村君が次のワンマンで脱退すると知って、バンドってものの想像を超えた複雑さを思い知る。
ワンマンは自分の引越しのすぐ後の日程らしいので速攻で予約のメールをした。
1stアルバムの『Lemon songs』(2018)は去年初めて聴いたんだけど本当に普遍性をもって突き刺してくる音楽で今でもずっと聴いてる。
今までの人生で愛してやまないアルバムを10枚選ぶなら絶対に入れる。
なんならこのアルバムをまだ消化し切れていなくて(?)、gateballersの他のアルバムはまだちゃんと聴き通せていないくらい。
おれは音楽に全然詳しくないし、未知の音楽に対して上手く心を開けないからかなり偏食気味で、それがけっこうコンプレックスなんだけど1つわかっているのはトンネルから抜け出していくような音楽が特別に好きだということ。あとはサウンドスケープ?景色?とにかくここじゃないどこかに連れて行ってくれるような音楽が無いとかなり生きていくのがハードになるであろうこと。
ヒューッとこぼしてしまうようなかっこいいサウンドの音楽も包み込まれちゃうような音像をもった音楽(詩性や叙情性よりも音の物質性みたいなものが特に際立つ音楽?)ももちろん好きなんだけど、gateballersはそれらの同心円にある感じがした。
ロックってパッケージされてるものを聴いて、ただのフォーマットのように感じることが増えて、勝手にロックと呼ばれるものに対して懐疑的になっていたけど、
彼らの音楽を聴いて音楽の懐の深さというかロックの豊かさというか、それらに対して心が少し開かれたように思う。大好き。
解散するバンドみたいな書き方をしてしまった。
ライブ行けるといい。
恵まれた子どもたちに
まず書いてる自分自身がそう。
我慢しようって話では全くない。人の顔色をみて後ろめたく生きるのは不誠実極まりないだろうと思う。
想像するべきは他者の気持ちとか感情とかよりも、その人がどんな現実に立っているのかということなのかもしれない。
何か与えようと躍起になってむしろ奪ってしまったり、
叱咤激励(のつもり)の言葉が、誰かの微かな希望に水をぶっかけてしまうことになったり、
そういう危うさとか難しさに自覚的にならなきゃと思う。
沈黙しようって言いたいわけじゃない。
完璧なんてクソくらえって言いたい。
優しく、良い人であれなんてもう絶対言いたくない。
うまくまとまらなかった。
米
今夜はパスタと書いたはずなのにいつも通り米を炊いてしまい、母に怒られた。